届いた二枚の写真/寄來的兩張照片

木曜日, 8月 20, 2009 by 米耶管理有限公司 , under


橋本吉博 「寄來的兩張照片」




前年秋天,九州老家寄來兩張照片。
  兩張都是7吋大小的照片,一張是學生時代在四國松山租房認識的朋友幫我拍的。另一張是四、五年後結婚典禮結束時拍的,照片上是我和老婆並肩站在老家玄關外。這兩張都是約四十年前所拍的照片。
  學生時代我在城北御幸町那的舊制松山高中改建成的宿舍住了兩年,之後換到離文理學系較近的池田町租房子。房東一家人住在一樓,二樓有五間六疊大的房間。當時有兩位就讀人文學科乙,同樣專攻經濟學的朋友也住在這。
  在那間公寓拍的照片裡,我身穿和服坐在窗戶敞開的窗框上,手裡拿著厚書,臉上掛著一副眼鏡。當時是覺得這張照片會被來去相親用的嗎,我一副以為是電影明星在拍宣傳照的模樣呢。
  當時百姓階級的老家只給我一點錢用,因此那是段幾乎每天都在堀之內的NHK松山放送局報導部打工,用電話接聽記者原稿的貧窮學生時代。沒錢的時候就只買等同不用錢的土司邊,朝朝日日把土司邊烤一烤塗上便宜的乳瑪琳吃。
  土司邊配當時才剛上市的拉麵泡麵吃是最高的享受,我腳邊應該散亂著許多殘骸,但從照片上壓根感覺不到那種氣氛。
  我是在二十七歲時結婚的。結束學生生活後進入報社工作,就定居在神戶。進公司第四年和同鄉小我三歲的妻子相親,在隔壁町的公民館舉行結婚儀式。
  另一張相片拍的是才剛從結婚宴席回來的新郎新娘,被人挖苦笨拙地站在一塊的樣子。從新娘頭上還蓋著新娘頭蓋看來,照片裡的我們是幾小時前才喝過交杯酒,剛結婚不久連新婚都還稱不上的兩人。
  這兩張照片被寄來是有原因的。
  今年三月,母親在即將滿九十歲的六天前過世。她原本是位身強力壯的健康女性。但後來成為七位家人的重心,邊工作邊照顧舅姑、小姑,還得擔起五個孩子的教育和工作,也許因為過度勞累,導致她五十多歲就罹患青光眼,治療也沒得到效果,幾年後雙眼就都失明了。
  「大學畢業後就轉來庄腳吧。」
  每次有什麼事,媽媽就會說因為你是家中繼承人,也許這時她的眼睛已發生狀況。我沒有好好回應,就這樣讓歲月流逝。
  工作後她變成用
  「結了婚就轉來啦。」
  哀求我。我覺得是打從放棄了就算苦苦哀求還是不聽她勸,在神戶開始新婚生活的長男,變得一句話都不跟我說後,眼睛狀況才急速惡化的。
  舉行葬禮時,我在弟弟進行喪主致詞之前,在送葬者面前公開送給母親的一段文章。
  這首叫做「盲目的母親」的五行詩,是描述著倉庫中發現媽媽寫給戰時出兵中滿州(中國東北部)的父親的信時的感動、思春期的苦澀回憶、感謝她裝做沒看到我的惡作劇的散文集,我將這首五行詩擺在她的軀體上,希望她能在對岸看看這首詩。
  她是個就算徹底失明,也不讓自己身邊的事造成別人的麻煩,一切全都自己來的剛強女性。我很輕易就能想像一句喪氣話也不說的媽媽,是用哪種心情將這兩張照片藏在自己的物品當中。
  這兩張妥善保存的照片,好像是做完第一個忌日,弟弟和弟媳整理母親的遺物時發現的。一想到照片之所以沒泛黃,是因為保管妥善的緣故,胸口不禁難過得揪成一團。
  「我老做些不孝的事。」
  「好想向你道歉」───
  去年底,NHK紅白歌合戰上杉本真人唱的「吾亦紅」,歌詞內容和我的心境十分貼切,我還因此哭了。妻子買CD給我的時候還說「這是爸爸你的歌呢」。我雖對她說「妳還不也是共犯」,但兩人偶爾還是會感慨萬千地一起聽這首歌。
  我拜託孩子們把這兩張照片中,她最後已烙印在網膜上的長男和媳婦的照片,在將來我走的時候和已年邁的軀體一起放進的棺材中。
  為了將來我到對岸時,她能立刻找到我。






 (原文)


 一昨年秋のある日、九州の実家から二枚の写真が届いた。
2L判サイズで、一枚は学生時代に四国の松山で下宿仲間の友人が写してくれたものだった。もう一枚はそれから四、五年たった結婚式直後の写真で、実家の玄関先で妻と並んで写っている。いずれも四十年ほど前のスナップである。
 学生時代は城北の御幸町にあった旧制松山高校当時のままの寮に二年間いて、その後文理学部に近い持田町の下宿にかわった。一階に大家さん一家が住んでおり、二階に六畳の部屋が五つあった。当時は人文学科乙という同じ経済学専攻の友人二人も一緒だった。
 その下宿で撮った一枚は、開け放った窓枠に腰を掛け、分厚い本を手にしながらカメラ目線の和服姿である。見合い写真を意識したのか映画スターのブロマイド風の気取ったものだった。
 百姓だった実家からはわずかな仕送りしかなく、堀ノ内のNHK松山放送局報道部でほぼ毎日、記者の原稿を電話でとるアルバイトをしていた貧乏学生時代。金がなくなるとタダ同然の食パンの耳だけを買い込み、来る日も来る日も焼いては安いマーガリンを塗って食べた。
当時、出始めたインスタントラーメンとの組み合わせが最高のご馳走だったので、足元にはそれらの残骸も散乱していたはずだが、写真にはそんな雰囲気はかけらもない。
 結婚したのは二十七歳のときだった。学生生活を終えてから新聞社に就職して神戸に住んでいた。入社四年目に同じ田舎の三つ年下の妻と見合いをし、隣町の公民館で式を挙げた。
 もう一枚の写真は、その披露宴から帰ってきたばかりの新郎新婦が冷やかされながらぎこちなく並んでいる図である。頭にまだ角隠しが乗ったままの妻の様子からすると、三々九度の杯から数時間しかたっていない、まだ新婚とも呼べないほやほやの二人である。
 二枚の写真が送られてきたのには訳があった。
 この年の三月、母が満九十歳にあと六日残して亡くなった。もともとは健康そのものの逞しい女性だった。七反百姓の中心になって働きながら舅姑、小姑の世話から五人の子どもの育児と家事をこなしてきたが、過労がたたったのか五十代で緑内障を患い、手当ての甲斐なく数年後には両眼とも失明してしまった。
「大学を卒業したら田舎に帰ってきなはい」
 事あるごとに家の跡継ぎだからと言っていた母だったが、この頃、すでに眼の不安があったのかも知れない。いい返事をしないまま歳月が流れた。
 就職してからは
「結婚したら帰ってきちょくれ」
という哀願にかわった。それでも言うことを聞かず、神戸で新婚生活を始めた長男を諦め、ひとことも言わなくなってから急速に眼が悪くなったような気がする。
 葬式の折、喪主挨拶をする弟に先立って母に捧げる一文を会葬者の前で披露した。
「盲目になった母」という五行詩、戦時中満州(中国東北部)に出兵した父あての母の手紙を蔵の中で見つけたときの感動、思春期の苦い思い出、いたずらを見て見ぬふりしてくれたことへの感謝を綴ったエッセイ集で、彼岸で読んでもらおうと躯にかさねて置いた。
完全に失明してからも、身のまわりのことは人の世話にならずにすべて自分でやってきた気丈の人。ひと言も弱音は吐かなかった母が、どんな思いで二枚の写真を自分の荷の中に忍ばせたかは容易に想像がつく。
 初盆をすませてから弟夫婦が母の遺品を整理するうちに、大事にしまっていた二枚の写真を見つけたらしい。セピア色になっていなかったのは、保管の仕方によるものではなかったかと思うと胸が締めつけられる。
「親不孝ばっかりしました」
「あなたに謝りたくて」―――。
昨年末、NHK紅白歌合戦ですぎもとまさとが歌った「吾亦紅(われもこう)」の詞が自分と重なって泣けた。妻はCDを買ってきて、「この歌お父さんの歌やねえ」と言う。「お前も共犯や」と言いながら時折、しんみりと二人で聞いている。
二枚の写真のうち、最後に彼女が網膜に焼き付けたであろう長男と嫁の写真は、老いた今の姿とセットで自分たちの棺に入れてくれるよう子どもたちに頼むことにしている。
向こうに行ってからすぐに見つけてもらえるように。






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